「ここにいて大丈夫」と思える場所をつくりたい
2026年8月
52回目の夏にして、ようやく自分が生きている意味や使命に気づきました。
これまで、ホ―ムページやSNSに、私が経験してきた体調不良のこと。
不安感や劣等感、繊細で傷つきやすいなど、気持ちのところを書いてきました。
でも、その奥にある本当の気持ちまでは、どうしても書くことができませんでした。
その理由は、不特定多数の方がみられるインターネット上で、自分の深い心の部分まで知られたくない。
失敗ばかりしている、弱い人間だと思われたくなかったのもあります。
整体の先生なのだから、もっと立派に見せなければいけない。そうした気持ちも、正直ありました。
でも、2026年の8月。
3日間にわたって、これまでの自分の人生を振り返る機会がありました。
子どもの頃のこと。
生まれ育った市川家のこと。
約10年間、体調を崩してきたこと。
人生で大きくつまずいたこと。
そして、妻や娘と出会い、今生きていること。
一つひとつ振り返っていく中で、気づいたことがあります。
それは、自分が壁をつくったままでは、本当に届けたい人に本当に伝えたいことは届かない。
どんな人なのか、よく分からない人に、体調のことや気持ちの深いところまで話そうとしないだろう。
そうした、大事なところに気づいたのです。
今ご覧くださっているぺージでは、整体師としてではなく一人の人間。
市川 猛として、これまで話してこなかったことを、書かせていただきました。
少々長い文章になりますが、お疲れのないように読みすすめてくださると幸いです。
名前は「猛」強そうなイメージ。でも、実際の私は違いました。
私は、三人兄弟の真ん中として育ちました。
両親につけてもらった名前は、猛(たけし)。寅年産まれ(1974年)です。
猛から感じ取れるイメージは、猛獣や阪神タイガースの猛虎。
仮面ライダーの本郷 猛
など、どこか強く、たくましいイメージのある名前です。
でも、実際の私はまったく違うものでした。
まるでネコのように臆病で、警戒心が強い。
これまでの人生で、兄弟を含めて人と殴り合いの喧嘩をしたことがない平和主義。大人しい人物でした。
どこか「自分は一人」という感覚がありました
子どもの頃から、人との距離を縮めることが得意ではありませんでした。
三人兄弟で育ちながらも、真ん中あるあるではないですが、どこか孤独を感じていました。
母親との幼少期の頃の想い出は、家から近くの空き地に座って「さくらんぼ餅」を食べた記憶を今でも覚えています。
今、振り返ると「お母さんと二人で過ごす時間をもっと欲しかった」愛情不足を感じていたのでした。
兄弟、3人で仲良く遊んだ記憶がなく、特に兄との関係はよくありませんでした。
助けてくれた。
励ましてくれた。
褒めてくれた。
笑って話しかけてくれた。
という思い出が全くなく、実際にはお兄ちゃんがいるのに、理想のお兄ちゃんがいない。
そうした、現実と理想のギャップを抱えて過ごしていました。
家族で一緒にTVを見て団らんする。
ということも記憶になく、殻に閉じこもった毎日を過ごしていました。
友達関係でも、引っ込み思案。
自分の感情を抑えて、まわりの顔色を見るようになりました。
ずっと、大阪で育ってきたのに大阪特有?のイジリや独特な言い回しの大阪弁が苦手。
高校生の頃から、人見知りが激しくなり、友達の輪に入ることがとても苦手。
そんな私は、高校卒業後、自動車整備を養成する専門学校。阪和鳳自動車工業専門学校にすすみました。
ここでやってしまいました。
入学早々、友達作りに失敗したのです。
同級生の輪に全く入ることができず、休憩時間はいつも一人で過ごしていました。
修学旅行(座間市にある日産の製造工場と東京ディズニーランド)の部屋割りも、周りがどんどん友達と部屋割りが決まるなか、私は一番最後に残りました。
もう、誰と一緒になったのかを覚えていません。
修学旅行先のメインである、ディズニーランド。
私には友だちがいませんので、一人で回るボッチランド状態。
どんな気持ちで、堺市から東京までバスに乗っていったのか。
母親はどんな気持ちで、送り出していたのだろうか。
どんな気持ちで帰りを待ってくれていたのだろうか。
今でも、そうしたことを考えることがあります。
社会人になってからも、いつも周りから浮いている。
繊細で生きづらい人生。
「自分は周りとは少し違う」
いや、
「自分は周りから間違いなく浮いている」
そんな感覚が、大人になってからもありました。
誰かに頼って傷つくくらいなら、自分一人で何とかした方がいい。
今振り返ると、そうやって自分を守っていたのかもしれません。
人生で築いてきたものを一気に失いました
37歳の頃、私の人生は大きく変わりました。
それは、忘れもしない2011年3月11日の昼下がり。
結婚を約束していた女性との婚約が破談になりました。
お断りをされたショックで体が揺れていると思いましたが、後に大変な地震が起きていたことに気づきました。
その後、完成を目前にしていた、新築の家を全く住むことなく売却。
この頃が、まさに人生どん底。
精神状態がよくなく、売却の手続きを全て父親がしてくれました。
いざという時に、お父さんが私の尻ぬぐいをしてくれて、本当に助けられました。
家を失い、働く意味を見失った私は、最初に高石市で開業をした整体院も廃業しました。
家庭
新しい家
仕事
お客様
信用
信頼
お金
それまで自分なりに積み上げてきたものを、一気に失ったのです。
特に、3年持たずの廃業は、「人生失敗」という烙印を押されたようで、命の電話に電話をするほど切羽詰まっていました。
そうして、生きる意味まで分からなくなり、しばらく社会から離れて過ごすようになりました。
私は、いわゆるニートになったのです。
もう一度立ち上がろうと思った理由
そんな私が、もう一度社会に戻ろうと思った大きな理由の一つが両親でした。
これ以上、心配をかけたくない。
もう一度、働いている姿を見せて安心してもらいたい。
最初から「もう一度成功してやる」
という強い自信があったわけではありません。
むしろ、自分自身を無理やり社会へ連れ出すような気持ちでした。
そして、もう一度整体院を2013年に開業しました。
それが現在の「さかい快福整体堂」です。
開業して数年後に、父親が癌を患いました。
父の状態が厳しいと分かった頃、病院のベッドで、父と家族について話す機会がありました。
特に兄との関係を話しました。
それをきっかけに、私の中で家族の見え方が少しずつ変わっていきました。
私はずっと、「自分は一人ぼっち、寂しい」と思っていました。
でも、本当にそうだったのだろうか?
振り返ってみると、私の人生にはずっと家族がいました。
両親がいて、兄と弟がいる。
兄は口数が少なく、言動がきつく苦手意識が強かったのですが、じっくり話しを聞くと、すごく私のことや弟のことを考えてくれているのが分かりました。
自分に頼れる兄貴がいた感覚を得ることができたのは、心の洗浄ができて嬉しい気持ちになりました。
そして今の私には、妻と娘がいます。
天然で、ちょっとポンコツなところがある私を笑ってくれる妻と娘。
気分屋で、頑固で、気難しいところがある私とも一緒にいてくれる。
そして、娘を産んでくれた。
娘が生まれ、私を「お父さん」にしてくれた。
家に帰れば、妻と娘がいる。
笑ったり、くだらない話をしたり、ときにはケンカをしたり。
自分自身と深く向き合ったとき、ようやく気づきました。
私が見つけた絶対安心
両親から受け取っていたもの。
兄や弟から受け取っていたもの。
そして今、妻と娘から受け取っているもの。
不器用でもいい。
弱くてもいい。
うまくできないことがあってもいい。
それでも、「ここにいて大丈夫」と思える居場所がある。
私にとって、それが「絶対安心」です。
この絶対安心とは、不安が一切なくなることでも、失敗しなくなることでもありません。
不安な自分も、弱い自分も、格好悪い自分も含めて、「それでも、自分はここにいていい」と思えること。
私にとって、その原点が家族でした。
今度は、私が渡す番です
私は、体も気持ちもつらい方。
孤独や劣等感、不安を抱えている方。
繊細さゆえに、生きづらさを感じている方のために、愛と勇気をもって向き合います。
そして、
「ここにいて大丈夫」と思える絶対安心の居場所をつくり、来店されるお客様が自分らしい生き方と健康を取り戻していただく。
そのきっかけを届けることを、これからも、さかい快福整体堂を通じて伝え続けていきます。
2026年8月30日
さかい快福整体堂
市川 猛
